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  • 執筆者の写真三楽犬

豊臣秀次の叔母、三好吉房の妹、大島親崇の室

こんにちは。


このままではどうぶつの森ばっかりやって廃人になりそうなので、

今回は個人的に気になった

 ・豊臣秀次の叔母

 ・三好吉房の妹

 ・大島親崇の室  について書きます。


まぁ、上記の3人は同一人物なんですが。


〇三好吉房って誰や…?

 百姓の出自と言われており、百姓時代は弥助と名乗ったと言われる。

羽柴秀吉の姉(日秀尼)を娶った経緯から士分に取り立てられると義弟にあたる羽柴秀吉や羽柴秀長が実子に恵まれなかったため、子どもたちはその養子となっている。

 長男:豊臣秀次(豊臣秀吉に養子入り)

 次男:豊臣秀勝(豊臣秀吉に養子入り)

 三男:豊臣秀保(豊臣秀長に養子入り)


そもそもは木下姓を名乗ったと言われるが、

長男の豊臣秀次が三好康長の養子になったのを

機に三好姓を名乗り、子が羽柴姓に直した後も三好姓を使い続けた。

コイツけっこうふてぶてしいやつだな。


と思わせておいて、羽柴や豊臣の名乗りが許されなかったので、

仕方なく名乗っていなのかもしれないっぽい。

ちなみに息子の秀次にもポンコツ扱いされていた。

いつ三好氏を名乗ったの?というのが大事になるので略年表を載せておきます。


【豊臣秀次の略年表】

1568年:生誕

1572年:宮部継潤に養子入り(宮部吉継時代)

1575年:三好康長に養子入り(諸説あり、最速でこの年)

1582年:三好康長に養子入り(諸説あり、最尾だとこの年)

1583年:三好家臣団を統率

     パパの吉房が三好姓を使い始める

1584年:羽柴姓を使い始める

1586年:秀吉から豊臣の本姓を許される。

1591年:関白就任

1595年:秀次事件、切腹を遂げる。


〇三好吉房の妹について

やっとですが、今日の主役。三好吉房の妹。

名前は分からないが、彼女も兄同様に百姓の出自。

今回のテーマは彼女が武士と結婚していること。


彼女の旦那は大島親崇。


大島親崇は阿波三好氏の一族の三好長延の子だが、父が一向宗に帰依した縁から長島一向一揆が勃発すると一揆方に加わって活動。一揆が鎮圧された後の動向は不明だが、後に妻の縁もあってか豊臣家臣となり、豊臣秀次に仕えた。

娘の於園ノ前(お国)は豊臣秀次の側室となったが、秀次事件に刑死。

親崇は連座せずに出家し、やがて病没している。


で、だ。

いつ2人が結婚するタイミングあった???

というのが疑問点。今回のテーマ。


wikipedia情報だと長島陥落後に尾張前ヶ須に退去したらしい。知らんけど。

また、娘の於園ノ前は享年22歳とのことなので、

先ほどの秀次の年表にこの親子の動向を加えてみる。


【大島親崇と豊臣秀次の略年表】

1568年:秀次、生誕

1572年:秀次、宮部継潤に養子入り(宮部吉継時代)

1574年:長島一向一揆鎮圧(大島親崇が失踪)

     於園ノ前が生誕。

1575年:秀次、三好康長に養子入り(諸説あり、最速でこの年)

1582年:秀次、三好康長に養子入り(諸説あり、最尾だとこの年)

1583年:秀次、三好家臣団を統率

     パパの吉房が三好姓を使い始める

1584年:秀次、羽柴姓を使い始める

1586年:秀次、秀吉から豊臣の本姓を許される。

1590年:大島親崇、豊臣秀次に仕える。

1590年:於園ノ前が秀次の側室に入る。

1591年:秀次、関白就任

1595年:秀次事件、秀次切腹。於園ノ前刑死。

1611年:大島親崇病没


う~ん。まとめてみると殊更、大島親崇と三好吉房妹が結ばれたタイミングがわからない。

以下にどのタイミングで結婚したのかの仮説を書いてみます。


仮説①

長島一揆から逃走→運命の出会い!(1574年くらい)

→娘の出生が間に合わない。1564年には三好吉房は秀吉の下で士分と

 なっているので、流石に縁者を一揆関係者に嫁がせないのでは?


仮説②

豊臣秀次が三好康長の養子入り→もう1人結婚させるドン!!(1575年~1582年くらい)

→タイミングが合わない。娘の出生のタイミングを合わせるとなると

 この時点の秀吉にそこまでの力はない。

 そもそも、大島親崇が本当に三好一族なのかも怪しい…。


※伝承では大島親崇の父親の三好長延は三好之長の弟される。が、

 この之長は1458年の生まれで三好長慶の曾祖父に当たり、世代がめっちゃずれる。

 仮に之長と長延が20歳差の兄弟だっとしても1478年生まれ、

 さらに親崇が晩年の子だったとして50歳差の親子としても1528年生まれ。

 この場合だと娘は40歳中盤での子ということになり、また93歳まで生きた計算になる。

 非現実的…、とまではいかないが十分に無理がある。


 よって、豊臣秀次が三好康長の養子に入ったオマケやコネで婚姻という線はなさそう。


仮説③

豊臣秀次が三好康長の養子入り→もう1人結婚させるドン!! + 娘は先妻との子

→大島親崇が本当に三好一族だったなら、あり得ない話ではない。

 が、今度は大島親崇にその価値があるか?という話になってくるのでは?

 秀吉から見れば、姉の夫の妹…。もう少し使い道がありそうな気もするが…。


仮説④

大島親崇自体も百姓の出自であり、妻の兄の子が三好一門に養子に入ったので

 後世の子孫あたりが三好一族の出自ということにした。


→大島姓は伊勢長島近辺の大島の地に由来しているということなので、

 単純に百姓や雑兵として一揆に加わっていたのであれば、

 尾張へ逃れて百姓娘だった妻と結ばれるのもあり得ない話ではない。

 ただし、そうなると第三次長島一揆平定戦に加わっている場合じゃなくなる。

 

そもそも、単純に妻の兄が士分になったのに乗じて自分も士分となっただけの人間なのかもしれない。長島一揆の話については豊臣秀次に仕えたころに伊勢に入っているので、そういうことにしておいたのかも。(超投げやり)


結論

 ぜんぜん分かんないわ。

 いずれにせよ、大島親崇に三好氏に血族的な繋がりがないのではないか。

 というように見えてきた。はやくどうぶつの森やりたい。

 詳しく知っている人いたら教えてください。

 


 ちなみにサムネは大島親崇ではありませんのであしからず。

 しからば。


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